東日本大震災エール
『伝えていこう』プロジェクト
活動の経緯
それは襷 を繋ぐ 駅伝から始まった
2014年10月5日、私たち(永野寛子、遠藤征志、仁田真也)は、瀬古利彦さん(DeNA Running Club総監督)主催の第7回富士山・山中湖チャリティ駅伝に、瀬古さんが中心となって活動をしている音楽団体『瀬古利彦とパンキーズ』の一員として、参加をしていました。このチャリティ駅伝は東日本大震災支援を目的に毎年開催されています。今回の駅伝では、宮城県の石巻から2校の高校が招待を受けていて、一緒に走りました。そのうちの1校、石巻西高校の陸上部の皆さんと大会前日の交流会でお話をしました。彼らは、大変なことを体験してきたにも関わらず、とても清らかな瞳で、明るく、くったくなく、一緒に話しをしてくれました。
そんな純粋な彼らを見て、仁田さんが、「えんちゃん、この陸上部のために応援歌を作ってよ」と突然言いました(えんちゃんとは、ピアニストの遠藤さんです)。そんな仁田さんの言葉を聞いて、何人かの生徒さんが突然泣き出しました。驚きました。自分たちの為に応援歌を作ってくれる、そんなことで泣いてしまうほど、まだ震災で受けた彼らの心の傷は癒されていなかったのです。遠藤さんは、僕に応援歌が作れるのか、と、はじめは躊躇したようですが、彼らの思いに深く感じ入り、もし自分に出来ることならばやってみようと、思ったそうです。
こんな偶然から、『伝えていこう』プロジェクトはスタートしました。
駅伝の開催から2週間後、私たちは、石巻に向かいました。
曲は現地を訪れてから作りたいという遠藤さんの希望で、石巻と石巻西高校、そして、来るべき陸上の大会のために仙台の競技場で練習をしている、陸上部の練習風景を見に行きました。
震災から4年、はじめての石巻でした。
4年間は、普通に日常を送っている私たちにはとても長く感じられる年月なので、どれだけ復興は進んでいるのだろうかと期待をして石巻を訪れたのですが、日和山から見た光景は、時間がそこだけ止まっているかのように何ひとつ変わっていない4年前の姿でした。
現実をまったくわかっていなかったと呆然としました。ものすごくショックでした。
石巻西高校のグランド脇には、慰霊碑が建っていました。
そこには、「百年後も千年後も伝え続けていかなければいけない」と書かれていました。私たちは自分たちの目で石巻を見て、書かれている言葉の重さを感じることができたような気がしました。
遠藤さんから曲ができましたと連絡が来たのは年も明けた2015年2月の中旬でした。
遠藤さんが自分の言葉で思いを伝えたいと思い、歌詞も遠藤さんが書きました。
石巻西高校の慰霊碑に書かれていた言葉から、題名は『伝えていこう』になりました。
それは、陸上部で頑張っているみんなへ
卒業をして、これから新しい世界へと踏み出すみんなへ
そして、震災の被害を乗り越えて頑張っているみんなへ
そんな、みんなへの応援歌となりました。
そこからが大慌です。
曲のレコーディングをして、なんとかすべて間に合わせ、3月1日の卒業式に陸上部の卒業生へのプレゼントとして、約束の応援歌を届けました。
果たして喜んでくれるのか、と不安な気持ちでしたが、彼らは、私たちに感謝の花束や、心のこもったメッセージを書いた色紙まで用意をして待ってくれていました。
そんな生徒たちの気持ちに、私たちは大感激でした。
私たちは、子供たちのこの暖かい純粋な気持ちに何か答えることはできないかと考えました。
このままで終わらせてはいけない、もっと違う形でエールを送る方法はないのか、と思ったのです。
生徒たちから頂いたプレゼントの中の一枚の写真に書かれていた言葉が頭をよぎりました。
『出会えたことに感謝!!!音楽のチカラで復興を!!』
音楽にはきっとチカラがある。
襷は陸上部から石巻へ
私たちは、東日本大震災エール『伝えていこう』プロジェクトを発足しました。
CD『伝えていこう』の売上の収益金の一部を、「東日本大震災みやぎこども育英募金」をはじめ石巻へ寄付させていただきます。
私たちのチカラは文字通り微力ですが、それでも震災の復興の助けになれるように、自分たちのできる音楽で、それを実現していきたいと思っています。
このプロジェクトに賛同をしてくださる方、また、『伝えていこう』を気に入ってくださった方、お力添えをよろしくお願いいたします。
なお、活動報告は順次ブログ、フェイスブック、にてご報告させていただきます。
みなさまのご協力、ご支援のほど、よろしくお願いいたします。
文責 永野寛子
東日本大震災エール『伝えていこう』プロジェクト 発起人一同